「古今和歌集」ならぬ「股間若衆」に感銘を受けた

珍本・奇本にして、大まじめな学術書といえるだろう。
この本の帯は、故米原万里氏によってシモネッタと名づけられたイタリア語通訳・エッセイストである田丸公美子氏によって次のように書かれている。
「男の沽券にかかわる本!」
露出か隠蔽か修整か?“古今”日本人美術家たちによる、男性の裸体と股間の表現を巡る葛藤と飽くなき挑戦! 
“曖昧模っ糊り”のなぞを縦横無尽に追及する本邦初、前代未聞の研究書。


本書の初出は以下のとおりであり、これらがまとめられて興味深い一冊となった。
●「股間若衆」 (サブタイトル)日本近現代彫刻の男性裸体表現の研究  芸術新潮2010年5月号
●「新股間若衆」 (サブタイトル)日本近現代写真の男性裸体表現の研究 芸術新潮2011年11月号
●「股間漏洩集」 「股間巡礼」 書き下ろし

美術館は当然のことととして、駅前のロータリー、市役所などの公共施設、市民が憩う公園の一角などに大きな裸体像が置かれている。
男女比では圧倒的に女性が多いのだろうが、男性のものも少なからずある。
その男性裸像についての興味深い考察が多くの写真(カラー・白黒)とともに展開されている。

筆者は東京都北区JR赤羽駅前ににある日本藝術院会員の川崎普照氏作成の<未来への讃歌>(平成5年に東京都美術館で開かれた第25回日展にて内閣総理大臣賞受賞)という作品(青年二人の裸像)を見て、ある問題意識に目覚める。
その青年は股間に何もぶら下げていなかったのである。
「あとがき」では次のように述べられている。
一瞬、我が目が曇ったのかと思った。あるべきものがあるようでないそれは、本当に不思議な股間だった。
強いてあげれば、バレーダンサーの股間に近い。もちろん男のもっこりとした方である。
いったいどこから、こんな曖昧模糊とした股間表現が生まれてきたのかを知りたいと思った。
そして、その持ち主が一糸まとわずなぜ駅前に立っているのか、通行人の多くはなぜ目を留めようとしないのかについても考えてみたかった。
家人にも友人にも黙ったまま、ふらりと旅に出た。つぎの町のつぎの裸の若者をめざして歩いているうちにどこからか言葉が降りてきた。それが「股間若衆」だった。
「コカンワカシュウ、コカンワカシュウ」と念仏のように唱えて歩くうちに(なにしろ巡礼者となったのだから)、突然、今度は「アイマイモッコリ」というお告げがあった。
(中略)
その道すがら、股間若衆たちがつぎからつぎへと現れた。
「曖昧模っ糊り」ばかりでなく、葉っぱや腰巻き、フンドシやパンツで隠した多種多様な股間若衆の世界、その過去と現在を『芸術新潮」の誌面で開陳しませんかというありがたいお話をもらった。
(後略)

かくして、時空を超えての不思議な股間に関する巡礼=調査・研究の考察が始まった。
画像


彫刻や写真、絵画をはじめ映画や演劇、文学に至るまで、およそなんらかの作物(さくぶつ)を創造するということは、その作者の思想や信条を表明することに他ならない。
官憲の横槍が入ることは勿論のこと、「正論」を振りかざす狭量なる「思想」の押しつけは、自由であるべき芸術の可能性の芽を摘んでしまうことになる。
そうした試行錯誤、紆余曲折を丹念に取材し、完成度の高い読み物に仕立て上げられている。

付録に「股間若衆」巡礼モデルコースも。
駅前に、役所に、公園に、体育館に……気がつけば雨の日も風の日も裸のまま、“彼”は、あなたのそばに佇んでいる!
いよいよ春本番の到来である。
気軽に戸外に出て、股間若衆鑑賞のミニ・トリップを愉しむのも一興かもしれない。


股間若衆: 男の裸は芸術か
新潮社
木下 直之

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