プレゼンテーション能力
再度2016年のオリンピック開催関連の話題について記してみたい。
『最高のプレゼンテーションだった』と自画自賛していた 東京チーム のプレゼン。
だが私の率直な印象は、『最高』というには余りにもお粗末なパフォーマンスだった・・・というものである。
開催地となったリオデジャネイロは南米初の開催という「大義」が功を奏したということもあるだろうが、プレゼンそのものが迫力と説得力に富んだものだと感じた。
東京は「環境と安全」をセールスポイントとしていたが、果たしてそのことが世界にアピールする内容であったかは疑わしい。
その議論はここでは割愛するが、多くの人々の心の扉を開け、共感と感動をよぶプレゼンテーションをしようとする意識や技術が足りなかったといえるのではないだろうか。
サプライズといわれた最初に登場した15歳の少女。
シンガポール在住というだけあって、その英語は淀みなく素晴らしかった。
確かに彼女は素晴らしく、彼女には何の罪もない。
だが、いかにも優等生的であり、「自分のことば」で語りかけるというものではなかった。
環境やらドーピングなどといった、小賢しい(といっては言いすぎだろうか)大人の入れ知恵に応えたもののように思えた。
何だか「文部科学大臣賞受賞の読書感想文」か「青年の主張コンクール最優秀賞」を聞かされているような気分になった。
少女の次に登壇した猪谷IOC副会長、鳩山首相、石原都知事以下のおとな達のプレゼンテーションは、残念ながらそうした訓練をしてこなかったということが如実にわかるものであった。
日本人が英語でのプレゼンテーションにハンディがあるというならば、ポルトガル語が母国語であるブラジルの人達も同じような条件であったといえる。
訛りの強い英語でありながら、聴衆に訴える「力」が格段に違ったと感じた。
そもそもなぜ、鳩山首相は日本語ではなく英語でプレゼンをしたのか。
去る9月22日の国連気候変動サミットでの温室効果ガス25%削減表明、9月24日の国連安全保障理事会における核問題についての意志表明も英語で行われた。
スタンフォード大学卒業ということなので、もう少し流暢な英語かと思ったが、いかにも日本人的なそれであった。
もとより、WASPの話す英語や正統的 Queen (King's )English(だけ)が英語ではない。
国際共通語としての英語は、発話する人の「お国訛り」があってよい。
むしろ、そのIdentityが発揮され、個性と親近感に溢れたものとなり好感がもてる。
先の国連における英語の演説は事前の練習(?)もあってか、それなりに堂々としたものではあった。
ただし、nuclear non-proliferation(核不拡散)などという語は何度も言いにくそうに話していたが・・・。
・・・そして東京招致のプレゼンテーション。
このプレゼンにおける首相は英語で話すことに汲々とし、訴えるべきメッセージが伝わってこない感じがした。
時々、言いよどみ、視線はあらぬ方向に泳いでいた。
後半は声もうわずり、落ち着きのないものにみえた。
述べるコンテンツの内容が正確に伝達されることが何よりも必要であるはずなのに、テレビの画面にむかって「おい、大丈夫かよ!」と言いたくなるほどであった。
無理をせず、日本語で余裕をもって語ったほうが良かったのではないだろうか。
総じて、皆一生懸命頑張っていたことは認めるものの、ハラハラさせられる稚拙なプレゼンであったと感じた。
身振り手振りを交えたパフォーマンスもとってつけたような、操り人形を見るような思いがした。
日本も小学校段階から、「プレゼンテーション」や「コミュニケーション」についてのシステマティックなトレーニングが必要だと思う。
一週間に100分程度の小学校での英語教育よりも優先順位は高いと思うのだが・・・。
さらに、日本のプレゼンテーションにおいて流されたビデオについても触れておきたい。
東京のPR,のはずなのに、どうして白人女性がにこやかに笑っているものを使わなければならないのだろうか。
コンプレックスの裏返しのようなステレオタイプな表現はそろそろ止めてもらいたい。
T社のこども店長のCMをはじめとして,「こども」・「動物」・「外タレ」を使って好感度を上げようとする安易なクリエーター達の姿勢にも疑問を感じてしまう。
『最高のプレゼンテーションだった』と自画自賛していた 東京チーム のプレゼン。
だが私の率直な印象は、『最高』というには余りにもお粗末なパフォーマンスだった・・・というものである。
開催地となったリオデジャネイロは南米初の開催という「大義」が功を奏したということもあるだろうが、プレゼンそのものが迫力と説得力に富んだものだと感じた。
東京は「環境と安全」をセールスポイントとしていたが、果たしてそのことが世界にアピールする内容であったかは疑わしい。
その議論はここでは割愛するが、多くの人々の心の扉を開け、共感と感動をよぶプレゼンテーションをしようとする意識や技術が足りなかったといえるのではないだろうか。
サプライズといわれた最初に登場した15歳の少女。
シンガポール在住というだけあって、その英語は淀みなく素晴らしかった。
確かに彼女は素晴らしく、彼女には何の罪もない。
だが、いかにも優等生的であり、「自分のことば」で語りかけるというものではなかった。
環境やらドーピングなどといった、小賢しい(といっては言いすぎだろうか)大人の入れ知恵に応えたもののように思えた。
何だか「文部科学大臣賞受賞の読書感想文」か「青年の主張コンクール最優秀賞」を聞かされているような気分になった。
少女の次に登壇した猪谷IOC副会長、鳩山首相、石原都知事以下のおとな達のプレゼンテーションは、残念ながらそうした訓練をしてこなかったということが如実にわかるものであった。
日本人が英語でのプレゼンテーションにハンディがあるというならば、ポルトガル語が母国語であるブラジルの人達も同じような条件であったといえる。
訛りの強い英語でありながら、聴衆に訴える「力」が格段に違ったと感じた。
そもそもなぜ、鳩山首相は日本語ではなく英語でプレゼンをしたのか。
去る9月22日の国連気候変動サミットでの温室効果ガス25%削減表明、9月24日の国連安全保障理事会における核問題についての意志表明も英語で行われた。
スタンフォード大学卒業ということなので、もう少し流暢な英語かと思ったが、いかにも日本人的なそれであった。
もとより、WASPの話す英語や正統的 Queen (King's )English(だけ)が英語ではない。
国際共通語としての英語は、発話する人の「お国訛り」があってよい。
むしろ、そのIdentityが発揮され、個性と親近感に溢れたものとなり好感がもてる。
先の国連における英語の演説は事前の練習(?)もあってか、それなりに堂々としたものではあった。
ただし、nuclear non-proliferation(核不拡散)などという語は何度も言いにくそうに話していたが・・・。
・・・そして東京招致のプレゼンテーション。
このプレゼンにおける首相は英語で話すことに汲々とし、訴えるべきメッセージが伝わってこない感じがした。
時々、言いよどみ、視線はあらぬ方向に泳いでいた。
後半は声もうわずり、落ち着きのないものにみえた。
述べるコンテンツの内容が正確に伝達されることが何よりも必要であるはずなのに、テレビの画面にむかって「おい、大丈夫かよ!」と言いたくなるほどであった。
無理をせず、日本語で余裕をもって語ったほうが良かったのではないだろうか。
総じて、皆一生懸命頑張っていたことは認めるものの、ハラハラさせられる稚拙なプレゼンであったと感じた。
身振り手振りを交えたパフォーマンスもとってつけたような、操り人形を見るような思いがした。
日本も小学校段階から、「プレゼンテーション」や「コミュニケーション」についてのシステマティックなトレーニングが必要だと思う。
一週間に100分程度の小学校での英語教育よりも優先順位は高いと思うのだが・・・。
さらに、日本のプレゼンテーションにおいて流されたビデオについても触れておきたい。
東京のPR,のはずなのに、どうして白人女性がにこやかに笑っているものを使わなければならないのだろうか。
コンプレックスの裏返しのようなステレオタイプな表現はそろそろ止めてもらいたい。
T社のこども店長のCMをはじめとして,「こども」・「動物」・「外タレ」を使って好感度を上げようとする安易なクリエーター達の姿勢にも疑問を感じてしまう。
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