井上ひさし氏の著作を再読

古書店「まんだらけ」(東京都中野区)が万引きをしたとされる男の画像をネット上で公開すると警告した問題が大きな話題となった。
書店側は13日、「ここまで世間の注目を集めるとは思っていなかった」として、事態の広がりは想定外だったことを明らかにした。
警視庁の要請を受けて中止を決めたが、フィギュアは13日現在も返却されておらず、同書店の広報担当者は「万引きは大きな罪であることを知ってほしい」と訴えている。

万引きの被害額は2011年度の統計では4500億円以上とされている。
万引きは立派な(?)窃盗犯であり、刑法犯として立件されれば、多くは刑法235条の規定により「10年以下の懲役または罰金50万円以下の罰金」が適用されることとなる。

万引きについて思い出すのは、かつて「小説現代」に連載されていたショートエッセイをまとめた井上ひさし著の
「ふふふ」という書籍の124~129ページに収められている「万引き」というエッセイである。

少し長くなるが、その一部を転載してみたい。
中学三年の春、転校先の岩手県一関市の書店で、わたしは生まれて初めて万引きというものをした。どうしてその小さな英和辞典を上着の下に隠してしまったのか、その理由はいまだによく分からない。
(中略)
店番をしていたのは細縁眼鏡のおばあさんだったが、そのおばあさんを甘く見たのか、万引きで余ったお金で大福餅でも食べようと思ったのか、友だちに盗品をこっそり見せて度胸のあるところを誇りたかったのか、古くさい辞書にあきて新しいものを使いたかったのか、あるいはその全部だったのか、それもよく分からない。
とにかくわたしは硬い辞典の冷たさを下着を通して感じながら震えて立っていた。
あのときの<世界から外れてしまったようなおそろしさ>を今も忘れることができない。

「坊やにお話がある」
おばあさんがいつのまにかわたしの横にいた。
「ちょっと奥へおいで」
「あたしが警察へ連れて行こうか」
入れ替わって店番に立ったおじさんが云うのを手上げて止め、おばあさんはわたしを裏庭の見える縁側の前へ押して行った。
「上着の下に隠したものをお出し」
震えながら差し出すと、おばあさんはその英和辞典をしげしげと見てから、
「これを売ると百円のもうけ。坊やにもって行かれてしまうと、百円のもうけはもちろんフイになる上に五百円の損が出る。その五百円を稼ぐには、これと同じ定価の本を五冊も売らなければならない。この計算が分かりますか」
四百円で仕入れて五百円で売っている。簡単な計算だから、こわごわ頷くと、「うちは六人家族だから、こういう本をひと月に百冊も二百冊も売らなければならないの。でも、坊やのような人が月に三十人もいてごらん。うちの六人は餓死にしなければならなくなる。こんな本一冊ぐらいと、軽い気持ちでやったのだろうけど、坊やのやったことは人殺しに近いんだよ」
恐ろしくなって縮み上がっていると、おばあさんは庭の隅に積んであった薪の山を指して云った。
「あの薪を割ってお行き。そしたら勘弁して上げるから」
無事に帰してもらえるのなら、どんなことでもするつもりでいたから、死に物狂いで薪を割ったことは云うまでもない。
薪割があらかた片付いたころ、おばあさんがおにぎりを二つ載せた皿を持って現れた。
「よく働いてくれたねえ。あとは息子がやるから、おにぎりを食べてお帰り」
そして驚いたことに、お金を七百円、わたしに差し出してこう云った。
「薪割りの手間賃は七百円。安いと思うなら、どこへでも行って聞いてみるといい。七百円が相場のはずだからね。七百円あれば、坊やが欲しがっていた英和辞典が買えるから、持ってお行き。そのかわり、このお金から五百円、差っ引いておくよ」
このときわたしは、二百円の労賃と、英和辞典一冊と、欲しいものがあれば働けばいい、働いても買えないものは欲しがらなければいいという世間の知恵を手に入れた。
まったく人生の師は至るところにいるものだ。もちろん、それ以来、万引きはしていない。
また薪割をするのはごめんだし、なによりも万引きが緩慢な殺人に等しいということが、おばあさんの説明で骨身に沁みたからである。  (後略)


現代の若者が井上少年のように納得するかどうかは、心もとない気もするが、「万引き=緩慢な殺人」という事実はきちんと伝えていきたいものだと思う。


ふふふ
講談社
井上 ひさし

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